第3章 そして翌日以降翌日からしばらくは大変であった。その月の支払先からの確認の多いこと。また自 身の今後が不安定であることはさておいて、すでに契約していた取り引きも支払先が 不安になって取り消しを求めてきたり、顧客からの問い合わせなどに忙殺された。し かし考えてみれば、立場が逆になれば、私とて回収に走りまわることになるだろうし この意味では納得できた。しかし、これも月末までであろうと思っていたが、致命的 な事がおきた。会社の資金調達先である長期信用銀行や保険会社が会社の譲渡予約債 権を実行してきたのあった。顧客先に対して説明する毎日が続く。顧客は親会社が破 綻したことで理解と個人としての将来には同情してくれた。函館の人はこういう時に はやさしい。しかし、私個人としてはほっておいてほしかった。同情は実際の解決に はならない。解決できるのは、自分達自身の考え方と実行力だ。会社に籍をおくもの 誰もが会社の存続を望み、また最悪でも早期の解決を望んだ。この時点ではまだ親会 社の本州分の決着もつかず、ましてや子会社である当社のことなど考えていられない 状況であったのだろう。 本社からの集合、会議の通知は依然としてこなかった。函館は師走の中この事件に 関連する事件が連続して起こった。上場企業の倒産。旭川の会社の倒産による余波で 函館工場の閉鎖など。ことあるごとに本社から指示や、状況説明のFAXは入ってい たが、年が明けて幕の内が外れるまで、本社は地方支店長を招集することはなかった。 親会社の破綻以来約3ヶ月後、各支店長を集めて初めて具体的説明が役員からあった。 手前味噌なはなしだが、よくモラルハザードが起きずに支店を守る事ができたと思う。 他店も同様であろうが、こういう事を我々は実は一度体験していた事も落ち着きの一 因としてあげられると思う。 自力存続は不可能。企業として売却を図る。これがその結論であった。 函館での初めての正月は不安と不満そして重圧のうちに過ぎていった。![]()
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