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◎世のため 人のために努力を (上甲晃さん)


志ネットワーク 青年塾代表  上甲 晃 さんは、大野町で「北海道クラス」の青年塾を開いています。昭和16年生まれ。昭和40年に松下電器産業に入社。56年から松下政経塾に。塾頭・常務理事・副塾長を歴任。平成7年退職。志の高い国づくりをテーマとした「志ネットワーク」を主宰している。


  自分の利益のための努力は 小さい 小さい

  
 政治家の大半は、「自分の名前を歴史に残したい」と思って仕事をしていると聞く。特に、時の総理大臣ともなると、頭の中はそのことで一杯らしい。「日本国のため、日本国民のため」と口では言いながら、本心は、「自分の名前を歴史に残したい」一身なのだ。私から言わせると、「自分の利益拡大を求める」野心・野望のレベルである。


  「野心」と「志」は根本的に違う

  改めて、私の独断的解釈を示したい。「自らの利益を大きくする心は、野心。みんなの利益を大きくする心は、「志」。その意味から、「志」と「野心」は、正反対の心である。

有名になりたい、お金儲けしたい、立身出世をしたい、これらはすべて、「野心」である。私は、「野心」を卑しいと否定するつもりはない。たいていの場合、「野心」は、人間が生きていくうえでの大きなエネルギー源である。

  明治の開国当時、日本人は、立身出世を自らの生きるエネルギー源として、刻苦勉励、精進してきた。また、戦後は、せめて腹一杯飯を食いたい、物質的に豊かになりたい、その一心でがんばってきた。その「野心」が、日本を世界的な経済大国にまで押し上げた。それはそれで、歴史的な必然であり、否定するつもりなど毛頭ない。事実、私も同じであった。人より一歩でも早く出世して、高い地位に付きたい、収入を増やしたい、その一念でがんばった時期も短くない。

  しかし、「自分の利益を追求する」程度では、いかにも小さい。位を極め、贅沢のきわみに達したら、途端にしぼんでしまう。野望や野心は生きるエネルギー源ではあるが、残念ながら、まことに小さい欲望に過ぎない。

現在の日本の社会がある種の停滞感を示しているのは、野望・野心に生きてきた日本人の行き詰まりでもある。自分の利益を追求してきて、ほぼそれが充足されてしまったのだ。それとともに、日本人の生きるエネルギーが急速にしぼんでしまったのだ。


  日本全体が志に目覚める時を迎える

  今こそ、日本人は、野心・野望のレベルを卒業して、「志」を求める時代である。すなわち、「自分一身の利益を超えて、みんなの利益を大きくする心を持って努力する」のである。みんなの利益を求めるのは、大仕事だ。自分ひとりが幸せになるよりも、みんなを幸せにする方が、どれほどの大仕事か。

働いても働いても働き足りないほど、成すべきことは多い。みんなの利益を拡大することは、終わり無き事業だ。まさに、「志」は、無限のエネルギーを引き出すほど、無限の力を与えてくれる。

  ただし、誤解があってはならない。「それなら、会社の仕事を投げ出して、日本のため、世界のために仕事をする方が良いのか」と思う人がいる。それは間違いである。私達にとって大切なことは、自分の持ち場を通じて、「みんなの利益を大きくする」ことが大切なのである。自分の足元をおろそかにして、世のため人のために働くと考えるのは、間違いである。私たちは、自らの足場を通じてしか社会に働きかけようがない。

  自分の仕事は社会に悪をもたらしているにもかかわらず、ボランティアとして、「世のため人のため」の活動に力を入れるのは、贖罪(しょくざい)的ボランティアである。やはり、本業を通じて、世のため人のために尽くす、それが本来あるべき姿である。

  本業、そして自分の足元が、もっとも厳しい現実である。そのもっとも厳しい現実から出発しないと、本物にはなれないのだ。人間、一生のうちにやれることは、たかが知れている。大事なことは、自らに与えられた仕事を天職として、その仕事を通じて、いかに多くの人たちを幸せにするかだ。


  天職は探すものではなく 作りあげるもの

  最近、私は、「天職は探すものではなく、作りあげていくものである」と声を大きくして、叫んでいる。天職を探すと考えると、今の足場をなかなか受け入れられない。

ちょっとした困難に出くわすと、「こんな仕事は天職ではない」 と考えてしまう。天職がどこが自分を待っていてくれていると思う錯覚。天職は、生涯を通じて、自ら作りあげているものだ。

  そのためには、「自分のしたいことをする」 といった甘い考え方は捨てることだ。大事なことは、「自分に与えられた仕事を好きになる努力」だ。仕事など、無限と言えるほどある。

その中から、自分の一番気にいる仕事を探すといった考え方は、空想に等しい。そんな空想に惑わされることなく、今自分に与えられた仕事を全力で好きになること。それこそ自分が幸せになれる最大の道である。

  時々そのことを結婚に例えて話すことがある。「自分の一番好きな人と結婚したいと、誰でも考える。しかし、地球上にいるすべての女性の中で、目の前のこの人が、自分に一番ふさわしい人なのかどうかなど、誰にも永遠にわからない。最愛の人を見つけることなど、空想である。第一、そんなことは物理的に不可能である。

 
  好きな人と結婚するのではない

  大事なことは、自分が好きで結婚した人を、最愛の人・にする努力だ。言葉を変えて言えば、ベターハーフを見つけて、一生かかって、最愛の人・にすることが、幸せの道である。それでは、自分の仕事を天職にし、自分の結婚した相手を 最愛の人 にするためには、どうすればいいのか。

答えは簡単だ。「志」を持つことである。どんな仕事をするかは、あくまでも手段であると考えること。人間、いつでも、何でも思うようになると考えるのはわがまま。時には食べるために、自らが希望しない仕事をしなければならないこともある。自ら希望した仕事をしていても、思いに反して続けられないこともある。そんなすべてを一つの運命として受け入れるとともに、「そんなことはあまり関係ない。私は、どんな仕事をしていても、人に喜ばれたい」 との志さえあれば、やがてすべての仕事を好きになるはずだ。「自分の希望する仕事ができればがんばります」 などと言われると、私なんかは、鼻白んでしまう。人生、そんなに思うように行くものかなと。

  あるフリーターに聞いた話。「自分のしたい仕事をしている人は、経済的に軌道に乗らないために、断念するケースが多い」らしい。私は当然だと思う。なぜならば、自分のしたい仕事をすれば、人生がうまくいくと考えている甘さが、その人にとって最大の障害になるからだ。

  私が松下電器の入社試験を受けた時、当時の人事担当常務が、「君、アフリカに行ってくれるか?」と質問した。私は、「行きます」と即座に答えた、そして家に帰り、「アフリカ勤務らしい」と家族に伝えた。しかし、人事担当常務は、すべての受験者にその質問をぶつけていることがわかった。あとから知ったこだが、「アメリカなら生きます」、「アフリカは嫌です」などといった応えをする人は、試験に落ちた。人事担当常務は、「どんな仕事でも喜んでやります」と答えられる人を合格にしたのだ。

  私自身、松下電器に勤務して、自分の希望する仕事をさせてもらった記憶は一度もない。「カラーテレビの営業の仕事をしたい」と希望したら、広報への仕事への配属を命じられた。「海外の仕事をしたい」と願い出たら、電子レンジの国内営業の転勤になった。そして、思いがけない松下政経塾への出向。私の希望など一度もかなえられなかった。ただ、私はすぐにのめりこむ癖があるようだ。いつの間にか広報の仕事が自分にもっともふさわしい仕事のように思え、また、松下政経塾の仕事が生涯の天職になった。

  富士山の頂上に登るのに、登山口はいくつもある。どの登山口から登っても、「富士山を極めたい」という志さえあれば、いつかは到達できる。問題は、どこの登山口から登るかではなく、人生において、どのような究極の目標を持つか、である。


  誰のために熱心か?自分のため?人のため?

  もう一つ、最近「熱心」であるだけでは物事行き詰まることに気がついた。「何のために、何をめざして熱心か?」、それが問題なのである。

まさに、「志に裏打ちされた熱心さかどうか」である。自分の利益に熱心であることは、しばしば嫌われる元だ。「今月のノルマ達成のために協力していただけませんか」と売り込みに熱心になつても、お客様は、「それは君の都合」といって取り合ってくれない。「相手のために」という心をもって熱心であれば、その熱心さは報われる。

  選挙の時、「次の選挙にはせひ私に一票を」と、何度も何度も訪問してお願いに行ったとしよう。その態度は、まことに熱心なものであった。しかし、熱心に努力している割に、有権者の反応は良くない。それに対して、「自分のためではありません。地域のために大いに働きたい」と熱心に説いて回ると、訪問すればするほど、有権者の支持が集まってくる。

  商売も同じ、自分の売上目標達成のために熱心であることは、大いに歓迎される。これもまた、「志むの問題だ。

  何のためにと問われた時に、「自分の利益のため」という野心は、限界がある。「世のため人のため」という「志」こそが、力強い命のエネルギーとして躍動するのだ。


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