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◎木村文助・赤い鳥の功績・STVラジオ百年物語の放送から「2002・10・1」



  平成14年9月22日・STVラジオ百年物語で木村文助の赤い鳥が放送されました。23分の内容
をまとめましたので、一緒に功績を考えてみましょう。


「北海道百年物語」

 
  私たちの住む北海道は、日本の国土面積の22%を占めています。そして、その大きく広がる山
林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸、など厳しい自然条件の中で先住民族であるアイ
ヌ民族や北方開発をめざす日本人によって拓かれてきた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの    連続でした。毎週この時間は、21世紀の北海道の指針をさぐるべくロマンに満ちた郷土の歴史をご     紹介してまいります。ご案内役は、私・奈良愛美です。

  STVラジオ北海道百年物語、今日は、教育者の 「木村文助」 をご紹介します。大正7年から
昭和13年まで道南の大野町、砂原町、戸井町の尋常高等小学校で校長を務めた文助は、綴り方
教育・現在の作文教育で優れた功績を残しました。中でも、日本初の児童文芸誌「赤い鳥」で大量
入選を果たした大野小学校は、日本一の綴り方学校と高く評価されました。
それでは、今から80年前・綴り方を通して子供の心の成長を願った教育者「木村文助」の生涯をお
聞き下さい。

  大正から昭和の初期、道南の小さな農村、大野村の小学校の綴り方が日本中の教育関係者の     注目を浴びました。指導に当たったのは、校長の木村文助。綴り方とは、現在の作文のことです。
当時の綴り方と言えば、教科書にあるような標準語で道徳的な内容を書くのが一般的でしたが、普 
段話している方言を使い日常の暮らしの様子を描くのが、大野小学校綴り方の特徴でした。そこには
悲しかった、嬉しかった、などというありきたりの表現や飾った言葉は登場しませんでした。身近な言    葉で身近な出来事を綴ることで、自分の心や社会の動きを見つめる力を養い、郷土に誇りを持って     ほしい、木村文助はそう願い綴り方教育に力を注いだのです。                               
 
 木村文助は、明治15年6月25日 秋田県の小さな農村に生まれました。生まれてすぐに母が亡く
なり、おじ夫婦のもとで育ちます。苦学して・秋田県師範学校卒業後は、県内の尋常高等小学校で教
師を務め、9年後の明治44年・29歳の若さで校長の要職に就きました。両親の愛情を知らずに過
ごした幼き日を振り返り、文助は児童教育の重要性を実感していました。それだけに、学習指導や学
校経営に情熱のすべてを傾けました。同時に、ロシアの文豪トルストルイの作品を愛読したり、東京
に・作家 徳富蘆花を訪ねたり、と自然主義の文学に傾倒し、地元新聞に小説や意見を投稿する文
学青年でもありました。綴り方教育に興味を持ったのもその頃です。2校目の校長を努めていた大正
5年・34歳の文助は、秋田師範学校の先輩で函館師範学校の初代校長に就任していた・和田喜八
郎ら一通の手紙をもらいました。「木村君・頑張っているようですね。君の評判は聞いています。たっ
ての頼みがあり手紙を書きます。私の居る函館周辺に、優秀な教師を秋田から迎えたいと思ってい
ます。木村君、北海道に来てくれないだろうか」 「えっ 北海道」 秋田で生まれ育った文助にとって
北海道は勿論未知の土地でした。当然不安もありました。しかし、恩師でもある和田の、北海道の教 
育にかける情熱にふれ教育者としての野心が、湧きあがってきました。格式ばった秋田県の教育界
に窮屈さを感じていたこともあり、新天地で自分の力を試して見たいと思いました。すぐに返事をした
ためました。「和田先生、北海道行きの件、謹んでお受けいたします。」。大正6年春、文助一家は北
海道に渡り、函館に居を構えました。最初の一年間は、函館師範学校の事務長を勤めます。そして
翌、大正7年7月31日・大野尋常高等小学校・訓導兼校長を命じられ、函館の隣の大野村に引っ越
しました。
 
  木村文助36歳。心待ちにしていた、北海道の小学校での日々が始まりました。文助はここで、綴
り方教育に本格的に取り組みたいと決めていました。このころ日本国内は大正デモクラシーの高まり
の中、文学にも教育にも自由主義的な空気が広がりつつありました。全国の教育者の間で、綴り方
教育論が盛んに交わされましたが、「どう指導すべきか」など教師の立場について論ずるのが大半で
児童生徒への学習効果の議論は、おざなりになっていました。綴り方は教育のひとつ、教育の主役
児童生徒と考えていた文助は、この状況に多少の怒りを感じながらも、どのように綴り方を指導しょう
かと悩んでいました。

  ちょうどその年です。東京で作家 鈴木三重吉が、日本初の文芸誌「赤い鳥」を創刊し、芥川龍之
介、北原白秋、西条八十、島崎藤村といった著名な作家が名を連ねました。鈴木はこの雑誌に小学
生の綴り方を掲載すると共に、文章はあったことや感じたことを普段使っている言葉で書くべきと主
張しました。現在では当たり前のようですが、当時は非常に画期的な提唱でした。「これだぁ」 赤い
鳥の創刊号を手にした文助は叫びました。あったことや感じたことを、普段使っている言葉で書けば
いいんだ。文助は、自身の綴り方教育の方向性を見つけました。

  綴り方の授業は、週一回・雑記帳を開きエンピツで思い思いの内容を記します。「身近にあったこ
とを好きなように書いてごらん。一番強く感じたことを、悲しかった・嬉しかったという言葉を使わず、     自分の本当の考えで、他の人にもよくわかるように書きなさい」。 それが文助の綴り方指導のすべ
てでした。授業の終わりを告げる鐘が鳴ると、雑記帳は集められ、そのまま校長のもとへ。担任教師
が目を通したり、ましては手を加えるなどは許されませんでした。日々の暮らしのありのままを書く
とを許された子供たちは、純粋な瞳と心で見つめたさまざまな出来事を自由に綴りました。農村には
題材はあふれていました。田植え・稲刈り・両親の手伝い・子守り・家で飼っている馬の出産・友達と
の遊び・それらの綴り方は、文助の胸をうちました。

  「稲刈り」 高等科2年・田島たき。学校から帰って家に来て、しとめに寄りかかって前の田を見渡
すと、母が一人で稲を刈っていた。「おらも稲刈りするや、なに、まだ夕飯支度するにも早いしと祖母
に言うと、祖母は、「バカ、おまえが刈れるなら誰も心配しねえ、始めは・手を切って手を切って」と言っ
たが、私は、「なして手を切るってか」と言って馬屋へ行ってのこガマを持って飛んで田に走った。
「おらも来たや」と叫んで行くと、母が、「稲刈りにきたて、頼まないこと、帰れ帰れ帰って晩の支度しな
いか、刈れないして、戻れ戻れ」、と私をぎろりと見て激しく言った。でも私は刈りたくて刈りたくて、左
手に稲をにぎって切れるのこガマでザリザリと刈った。

  当時の大野村の稲作農家に育つ14歳の少女の、稲刈りをして家族を助けたいという思いが伝わ
ってきます。「大野の子供たちの感性や観察力はまったく素晴らしい。何とかして世の中に発表でき
ないだろうか」 
大正11年夏。日頃は沈着冷静な文助が、四角い顔を真っ赤にして叫びながら、職員室に駆け込み
ました。「やった、第一席だ、やったぞ」 「校長・校長どうかされたんですか」 「うー 第一席だよ。う
ちの子供たちの綴り方が赤い鳥に入選したんだ。あー ほらここだ。全国の子供らが書いた二千編
の綴り方から選ばれたんだよ。うわー やったよ」

  大野小学校に赴任して4年目のこの年、文助は愛読していた赤い鳥に、綴り方数編を初めて投
稿してみました。それまでの掲載作品は、都会的ものが多かっただけに、入選する自信はなく、尊敬
する主宰者の鈴木三重吉に、一度でいいから大野の子供たちの綴り方を、読んでもらいたいと思っ
たのです。それが初投稿で第一席とは、その鈴木三重吉は選評でこう記しました。「北海道の大野小
学校からは、いろいろ優れた作品がきました。とかく、年級の上の人は、下等な表現におぼれたり、
こましゅくれた書き方をします。この作品は、どこまでも・うぶうぶしていて、ちょっとも嫌味がありませ
せん。事実をよくつかんで書いている上に、言葉によけいな飾りがないので、すべてがハッキリと目に浮かびます」

  北海道の小さな農村から投稿した綴り方を、そして自分の指導を認めてくれる人がいる。40歳に
なっていた文助は、大いに自信をつけ以降も投稿を続けました。毎月2000編の投稿から掲載され
るのは10編足らず。それでも大野小学校の綴り方は、毎号のように赤い鳥の紙面を飾り、全国の教
育者・ことに地方の農村や漁村の教師たちに大きな刺激を与えました。昭和4年に赤い鳥が休刊す
るまで、大野小学校の綴り方は全国で最も多い59編が掲載されました。

  文助は、更に教育に没頭します。学校に同窓会文庫を作って600冊を揃え本に親しませました。
言葉の幅を広げるために、尋常科5年からは毎週辞書を引く競争を行い、その月の優秀な綴り方を
ガリ版印刷して全校に配布する熱の入れようでした。綴り方と修身・現在の道徳の授業の関係を密
接にし、「考えて書く」という行為の中で道徳感を養わせようとしたものが、文助の綴り方教育の大
きな特徴でした。社会問題を通して考えを深めるよう、終身の授業に新聞を取り入れ、地理や理科
では、時に教科書を離れて身近な地域に題材を求めました。

  子供たちの綴り方を広く読んでもらいたいと願った文助は、大正13年にガリ版印刷で 「綴り方生
活・村の子供」 を製作し、3年後に東京の出版社から出版するという快挙を成し遂げました。
鈴木三重吉が序文を寄せたこの本は、全国で読まれました。しかし、大野村の親たちは、複雑な心
境を隠しきれませんでした。「おい、子供らの綴り方読んだか」 「ああ、おらのうぢ(家)のことが、みん
なに知れてしまったや。はずかしい。校長先生が東京で立派な本さ作ったから、今度は日本中の笑い
ものだよ」 「あんた、なしてばっちゃんの病気の話を、綴り方にかいたんだ。お金がなくて、お医者さ
んに行かれなかったことも書いたんだなあ」 「だって、木村校長先生が、何でも書いていいよってお
っしゃったんだよ」「バッカ、いくら校長先生のお話でも、そんな恥ずかしいことは、隠しておくもんだあ」    「だってー」

  大野小学校の綴り方が評判を集めるにつれ、父兄や地元住人の中には 「わざわざ田舎の苦労
話を広めなくても」 と不満をもらす者も出てきました。その声は、地域の教育を司る役人の耳にも入
りました。しかし、文助は信念を曲げませんでした。「たとえ貧しくても、農村の生活を恥じることはな
い。家族や地域が協力しあって生きる大野の人々の心は、とても豊かなのだ。子供たちの綴り方が
それを表しているではないか。都会と比べる必要はない」。

  昭和3年6月・46歳の文助は、年度途中で・丸10年勤めた大野小学校を離れることを、余儀なく
されました。突然のこの異動は、文助のやり方を好まない役人による左遷だと、新聞に報じられまし
た。秋田県人らしい意思の強さ、悪く言えば・ガンコさを持った文助は、権力者や反対意見を唱えるも
のに、うまく立ち回るようなマネは出来なかったのです。左遷と報じられても、文助の教育方針は、
ゆるぎませんでした。その後に赴任した、砂原小学校・戸井村の日新小学校でも、精力的に綴り方指
導を続けます。

  砂原小学校では、高等科生徒とともに、イワシ・マグロ・イカ漁で賑わう村の様子を2年がかりで調
べ、 「漁村職業の全貌」 と題する文集にまとめました。自らの足を運んで・調べて書きながら、生徒
は郷土愛や職業意識・大人への尊敬の念を培いました。

  木村校長が、戸井の日新小学校を最後に退職した昭和13年は、日中戦争が始まった年で、日
本が軍国主義へと変わっていった時代でした。退職後も、札幌一中の夜学である昭和中学で、数年
間国語の教鞭をとりました。単身赴任を余儀なくされましたが、根っからの教育者である文助は、再
び教壇に立てる喜びでいっぱいでした。

  木村文助は、「教え子から作家が出ることを望んではいない。それより、一人でも多くの人生とか
社会のことを考える生活ができれば、それでいいと思う」。とひとに話したといい、それがまた人生観
でもあったといいます。
そして、昭和28年・森町で教育に捧げたその生涯を、終えました。享年72歳でした。

  木村校長の偉業と功績は、昭和30年代に出された 「北海道教育史」 の各所に記されていま
す。
また、大野町では住民グループを中心に、20年前から文助の資料収集を始めました。現在、町の郷
土資料館で200点以上の資料を閲覧できます。

  北海道百年物語、今日ご紹介したのは、綴り方教育・現在の作文教育で、すぐれた功績を残した
教育者・木村文助でした。

              以上 2002・9・22  STVラジオからの転写です
 

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