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◎熊と闘う 森の話 18 「2006・10・30」



  今年は「熊」のニュースが多い。滋賀県の民家の倉庫に入り大暴れ。北海道では、手負い熊捕獲見回りのハンターが襲われ死亡、など数え切れないほど熊被害の便りが。熊が増えたのか、それとも山の食べ物が少ないからでしょうか。人里に白昼堂々と現れるのは異常です。人間が熊の領域に入りすぎているのかも知れない。

  「熊と格闘・時期が命を救った」

  1982年発行の上富良野町をさぐる会の機関紙に、「クマに襲われる」という話が載っている。三好清次郎さん(当時43歳)は、昭和34年11月4日の夜、映画を観たあとの帰り道で襲われた。農道を自転車で通行中、突然後ろで「うなり声」がした。振り向くと、真っ黒いものが飛びかかってきた。自転車もろとも吹き飛ばされ、道路脇の排水溝に仰向けに倒れた。クマに四肢で押さえつけられ、かじられたという。

アノラック、セーター、コットン、メリヤスのシャツ、胴巻き等厚着をしていたが、ズタズタに引き裂かれた。噛み付いてくるクマは、月夜なのでハッキリ見えた。ちょうど猫が怒ったときに毛を立てるように、クマも毛を立て恐ろしい顔になっていた。

頭をかじられる音が不気味に聞こえた。夢中でクマの耳を引っ張ったり、あごを押したりしたが、すぐに振り払われてしまった。5分も格闘していたのでしょうか、サイレンが鳴り響き消防車がきた。クマは慌てて逃げた。当時、麻酔なしで50針も縫う怪我だったという。

当時の教科書に、クマに出合った時は「死んだふりをすると助かる」とあった。そこで「死んだ振り」をしたが効果はなかったという。秋のクマは、冬眠に入るので爪や手のひらを大切にする風習があり、口でかじったのだという。この時期でなければ、手で一撃されて死んでいたでしょう。クマにかまれた傷は化膿しないという。

  「熊との武勇伝」

  市渡の江差通りに花巻源一郎さんという人がいる。大野町の教育委員などを歴任し、昔の出来事を知り尽くしている生き字引の大先輩です。この花巻さんが熊と格闘した話が、「郷土の言い伝え」という冊子に載っている。

  最初、「アマポー」について説明します。昔は大野牧場に放牧した馬や牛が、熊によく殺られた。熊への人間の報復手段として「アマポー」を使った。熊は殺した牛馬を一度に食べず、何回かに分けて食べる習性があるという。熊の通路に、馬の毛でよりあわせた糸を張る。熊がその糸に触れて通過した瞬間、ズドンと鉄砲弾が飛びだし撃ち取るという仕掛けです。一発で仕留められない場合、手負い熊となり凶暴性が強まる。

  昭和19年8月5日、花巻源一郎さん(当時 26歳)は大野牧場きじひき地区でアマポーによる手負いの熊を仕留めるという話を聞き、一員として参加した。一行は父親を含め4人。牧場の南側に到着したら、突然大きな熊が飛びかかってきた。同時に一発銃を撃ったが、弾は腹をかすめただけで撃ち取れなかった。

とっさに腰の7寸5分の山刀を抜き取り、腕が折れんばかりに熊の腹に刺した。「刺した、刺した」と叫んだが、同時に殴打され気を失った。せがれ危うしと見た父親の源次郎さんは、吠え狂う熊の口の中に手を突っ込み、舌をグイとつかみ腰の9寸5分の山刀を熊の胸部に突き刺した。この時源次郎さんは、右首から肩にかけ引き裂かれる傷を負った。

腹と胸に2本刺された熊は、源次郎さんにのしかかったが、「ウォー・ウォー」とうなり声をあげバッタリ倒れたという。父は、何度も「この野郎・この野郎」と言った。同行した他の二人は、木に登り無事だった。花巻源一郎さんは、怪我をした体で8キロの山道を自力で下ったという。

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  今年は、わが家の近くにもあいさつに来ている。裏山の匠の森公園には毎年現れるが、なかなか捕獲ができない。ハンターの人たちは、時には生活のための仕事を投げ打ち、捕獲や見回りに協力していることには、頭が下がる。

ハンターとて身の危険を感じないわけはない。自然保護や動物の環境保護重視の時代、熊との共生は理解できないわけではないが、あまり増えると生活に危険を感じることになる。心配なのは、ハンターの減少と後継者不足の現状です。ハンターの定期的巡回やハンターの後継者育成などにも政治の光を当ててほしい。











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