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◎人生晩年と重なる・散る桜



  今年の桜は近年にない「花盛り」、花咲じいさんが ・・・・・ でしょうか。昨年は、「前年の大風が運んできた塩害の影響?」、はたまた「鳥が餌不足で桜のつぼみを食べた?」などの推理がされるほど、桜がさっぱり咲かない年でした。今年は、久しぶりに桜の美しさを堪能したことでしょう。

  桜にまつわることはたくさんありますね。私が小さい時・聞かされた太平洋戦争、特攻隊員が突撃前夜に書いた母への手紙の一説。「お母さん、広島は桜が満開でしょう。明日散る桜は、私だと思ってください ・・・・・・」。この文章、忘れることができない。

  万葉集に「桜児(さくらこ)」という、二人の男性の求婚に苦しみ、命を絶つという伝説がある。「散る桜」、「散らないでくれ」という祈りむなしく ・・・・・。求婚した男が詠んだ歌だという。上甲晃さんの「桜の名残り」を読み、自分の人生どう散ればいいのか、一考してみましょうか。どんな人も、かならず散るんですから。


  「桜の名残り」   志ネットワーク代表  上甲 晃 さん  (デイリーメッセージから)


  桜花爛漫。咲き誇る花に、人々は酔う。しかし、年齢と共に、桜の花一つに対しても、見方が変わる。80歳を越えると、人間は、いつ自らの命が尽きても不思議ではないと思うのだろう。

命の短さを思えば思うほど、生きている瞬間がいとおしくなるのだろう。若いころ、人は永遠に生きられるような気がしている。死ぬことなど、まつたく眼中にない。仮に誰かが死んでも、とても自らにも起きうることとは思えない。

  伝記作家の小島直記先生と、愛媛県に出かけたことがある。羽田空港から、茅ヶ崎の自宅まで、一緒にタクシーに乗った。タクシーが藤沢の坂道を、西に向かって下りて行く時、目の前に驚くほど大きい夕日が赤々と見えた。今でも鮮明に記憶している光景である。その時、小島先生が、「僕の人生みたいだな」とつぶやかれた。その言葉が、夕日異常に鮮明に耳元に残っている。

  老いと共に、沈んでいく太陽さえも、命の光のように感じられるのだ。若いころには、夕日など、これから何度も見ることが出来ると思うから、特別の感慨がない。しかし、齢を重ね、老いを実感し始めるに従い。沈んでいく太陽の輝きが、自らの最後の輝きと重なって見えるのだろう。死ぬことを意識し始めて、初めて、人は生きることを意識し始めるようだ。

  私も60歳の半ばに差し掛かってきた。80歳を越えた人達の気持ちは、80歳にならなければ分からない。それでも、老いが忍び寄る足音が遠くに聞こえ始めると、目の前で咲く爛漫の桜にさえ、切なく、いとおしい気持ちになる。

  「これが見納めになるかもしれない」。そんな気持ちを、私は何となく好ましいように思っている。刻々と過ぎて行く時間をいつくしみ、瞬間を大事に生きていこうとする姿勢は、年寄りの輝きではないか。若いころには、一日二日を無意味に生きることさえ、何の抵抗感もない。その若い人達に、年寄りの気持ちなど理解できない。山登りと同じだ。その高さまで上がって初めて見える景色が多い。
 

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