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◎「礼」を失するべからず



  人にお世話になることは誰でもあります。「オレは絶対人の世話にはならん」、と思っている人は反省です。世話になっていることを、世話になっていると思わない人もいるのです。

志ネットワーク 青年塾・代表の上甲晃さんが、自分の教え子に 「世話になった礼儀」 を忘れないようにという手紙を書きました。私も、「反省・反省」です。


  タイトル  「青年塾・諸君への手紙」  志ネットワーク  上甲 晃 氏


   「物事を頼む時だけ熱心な人」  

  物事を人に頼む時には、誰でも、とにかく熱心である。頼み事の内容が難しいものであればあるほど、ますます熱心さが増す。「どうぞよろしくお願いします」と、頭を低くして、時にはひれ伏すように拝み倒す人もいる。

それは、何も政治家だけに限るものではない。今月の売上目標を達成するために得意先に頼むこともあれば、駐車違反を見逃してほしいていった、けしからん頼み事もある。

  私も、しばしばいろいろなことを頼まれる。もちろん、私からお願いするケースも多いので、あまり偉そうなことは言えないが、頼まれてみて分かることも多い。

  
  「頼む時は熱心 後は なしの礫(つぶて)」

  それは、「人に物事を頼む時にはまことに熱心だが、事が成就すると、「なしの礫」、事の顛末の報告やお礼の言葉のひとつない人が圧倒的に多いこと」である。

あれだけ熱心に頼みにきたのだから、済んだ後には、「本当にご苦労様でした」の一言ぐらいお礼の言葉があってもいいのではないか、あるいは、「その後こんな風になりました」と経過報告一つがあってもいいのではないかと思うことしきりだ。

  しかし、私の経験上から言うと、そんな行き届いた人は、きわめてまれである。「ところであの件、結局どのようになったのであろうか」と、こちらが確かめなければならないケースが多い。


  「用が済んだら お払い箱扱い」

  私は、毎日のように講演を依頼されて、出かける。講演の依頼者は、講演が始まるまではとにかく熱心である。会場までの道順案内や日時の確認、さらには到着の段取りまで、執拗に聞いてこられる。それはありがたいことであり、私も助かる。ところが、講演が終わると、掌(てのひら)が返ってしまう。まるで、「用済み」扱いだ。


  「礼状を出しているか?報告はしたか?」

  それにつけても、「頼む時だけ熱心。終わってしまったら、なしの礫(つぶて)」にはなっていないだろうか。今一度、すべてにわたって見直してほしい。例えば、お世話になった方々へのお礼状はきちんと出せているだろうか。私はいささか心配している。

私にも、研修が終わるたびに、何人かの塾生諸君から、研修のお礼と感想が寄せられる。まことにうれしいし、心の絆が深くなる思いがする。しかし、そんな人は例外中の例外。

私のことは良いとしても、「塾生諸君は、研修でお世話になった方々に、きちんと礼状を差し上げているのだろうか」と心配になる。あれだけいい勉強になりましたと感激し感動していたのだから、「ありがとうございました。お世話になりました」の一言ぐらいあってしかるべきだろうと、ついつい問い詰めたくなる。

 

  「相手に心配をかけていないか」

  「頼み事に熱心」ということは、自分の利益のことである。だから、「頼み事に熱心」になることは、誰でもできることなのだ。「用が済んでからも、熱心」になることは、相手を思いやる心である。

松下幸之助は、「相手に心配かけるようではあかんな。きちんとした報告をすることは、相手に心配をかけないことでもある」と教えた。

「青年塾」は、「自分さえよければいい」といった自己利益中心の心を越えて、相手を思いやる心を育てる場であるとするならば、「頼み事」が成就した後のお礼と報告は不可欠であることを覚えておいていただきたい。

  人に相談をもちかけておいて、後は「なしの礫」といったケースも多い。相談された限りは何か力になりたいと、私は色々と手を打っているが、相手は何も言ってこない。こちらから、「あの件、どうなった?」と聞いたら、「あれはもう解決しました」と言う。「それならそうと、なぜ言ってこない」。そんなケースは枚挙にいとまない。相手に心配させるようでは、「自己利益中心」のエゴイストとそしられるのも止むを得ない。


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