(タッツォ・ヌヴォラーリ/イタリア)
| TAZIO NUVOLARIは1892年11月16日イタリア北中部、マントバ市の近郊カステルダリオで生まれ、本格的なレース活動は1920年にモーターサイクルでレースを始める。その後30年間をレーシングフィールドで過ごした。レースを始めた年齢は決して若くはなかったが、モータースポーツに対する情熱は、人々に感動を、そして彼は全世界のチャンピオン中のチャンピオンと称えられた。 TAZIO NUVOLARIのレーサーとしての戦歴は、モーターサイクルレース353回の参戦、内グランプリレースは124戦になり実に105回の優勝を成し遂げ、そして1924年と1926年のモーターサイクル、イタリアンチャンピオンとなる。一方カーレースでは1935年、1936年のチャンピオンを獲得。主なカーレースは1935年ドイツ・グランプリ“ニュルブルクリンク”サーキットで圧倒的に優勢であったメルセデスやアウトニオンを100馬力も劣るスクーデリア・フェラーリ率いるアルファロメオP3によって最終ラップで逆転優勝を飾り、当時のドイツの総統アドルフ・ヒットラーの代理で会場にきていた将校が怒って帰ってしまったという逸話もある。また同じ1935年6月15日にはアルファロメオ・ビモトーレ(前後にエンジンを搭載したレーシングカー)を駆って、フィレンツェ・メア・モーターウェイにて2つのスピード記録を達成、0-1kmで信じがたいスピードで321.425km/h、0-1マイルでは323.175q/hの記録を樹立した。有名な公道レース、ミレ・ミレアではゴール間近トップを走行している車に、ヘッドライトを消して走り、近づき追い越し、優勝してしまったこともあり、数々の名勝負を繰り広げた。 TAZIO NUVOLARIは「最後の古い大胆なレーサーであり、且つ最初の近代レーシングドライバーである」と称えられ、また4輪ドリフト走行をあみ出したことでも有名である。 彼が1953年8月11日に他界したときには61歳の若さであり、当時のレーシングドライバーとしては、数を数えられない程負傷しているにもかかわらず、レースで命を落とさなかった「無事これ名馬」といえる。 TAZIO NUVOLARIがそのレース生涯の伝説的なレースで優勝した一部のレース名は、ミレ・ミリア、タルガフロリオ、イタリア・グランプリ、モナコ・グランプリ、フランス・グランプリ、ドイツ・グランプリ、ツーリストトロフィー、バルセロナ・グランプリ、ブタペスト・グランプリ、ル・マン24時間、コッパ・ヴァンダービルト(アメリカ)他が上げられ、かのFerrariの創始者ENZO FERRARIは生涯このTAZIO NUVOLARIを基本として、自分のレーシングチームのドライバーを選択したことでも知られている。 マントバ市にある「MUSEO TAZIO NUVOLARI」には彼が1946年から1953年に他界するまで、オートモービルクラブマントバの会長に在籍したいた時、当クラブに寄贈したカップ、トロフィー、新聞、雑誌記事、写真、手紙、衣服やその他の個人的な持ち物などを集め展示している。この遺品はオートモービルクラブとマントバ市議会の管理のもとに、この非凡な人物TAZIOとそのレース生涯へのはなむけとして、また新しい世代と彼自身並びに彼の歴史を知る人々のために、メモリアル・ルーム「MUSEO TAZIO NUVOLARI」が設置された。 TAZIO NUVOLARIは全世界のモータースポーツファンを湧かせ、興奮させ、熱狂させ、愛されたレーシングドライバーであった。 |
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